おめでとう!!!
今日は幸せ自慢です。(幸せなことばかり楽しいばかりたくさん書き残していったら、あとでブログを読み返したとき「ああ、いいことばかりだったなあ」と思えるので良いですね!)
ぼくが3ヶ月くらい勉強教えてた中学3年の子が、志望校に合格しました!!
おめでとう!
経緯など → タグ:ボラ
忘れないうちにメッセージでも垂れ流しておきます。
今日は幸せ自慢です。(幸せなことばかり楽しいばかりたくさん書き残していったら、あとでブログを読み返したとき「ああ、いいことばかりだったなあ」と思えるので良いですね!)
ぼくが3ヶ月くらい勉強教えてた中学3年の子が、志望校に合格しました!!
おめでとう!
経緯など → タグ:ボラ
忘れないうちにメッセージでも垂れ流しておきます。
何事もバランスが大事です。
最近個人的にブログ熱が高まってたけど、昨日でピークを向かえて、これからちょっと更新頻度少なくなるかも。というか意図的に少なくするつもり。
ブログをたくさん書いてる時期というのはあんまり仕事に熱が入ってないし、ぼくは仕事をしないとお給料がもらえなくなって大変なことになりますから、バランスをとってうまくやっていかないといけない。(今月の給料、なぜか少し少なかったし。謎。)
ついでに(何のついでか)、RSSのフィード(ブログの更新情報のこと)を大量に削除しました。150くらいあったうちの100を消した。昨日紹介したブログみたいにとてもいいものというのは探さなくても見つかるから、あんまり雑多な情報仕入れてもしょうがない気がしてきたし。削除→登録→削除→・・・ってやっていけば、だんだん淘汰されて、いいこと書くブログとかきちんと更新するブログだけ生き残っていいですね。(ナントカの壷っていうブログのフィードも消してしまおうかと思いました。)
みそ汁作って寝よ!
↑のブログを読んで色々思いました。とりあえずみんなも読むといいよ! 読んで思うことは人それぞれだろうけど。
ぼくは研究とかできなかったし正直なところあんまりやる気もなかったのですが、今でも答えがよく分からないことを考えることは好きじゃないですね。
何で間違うことに対して恐怖を抱いているのかというと、まだ君には精神的な背骨が育っていないからだと思う。
と書いてあったけど、まさにぼくにも背骨がなかったと思う。
子供の頃、環境が激変して、その環境に適応したのに突然環境を変えられ、また適応して楽しくなったのにまた環境が変わって・・・という感じだったのでぼくはずっと「周囲に合わせる」ということにエネルギーを使ってたから、自分の芯となるものという「背骨」というものがよく分からなかった。
私の判断基準の基礎は両親が作った。その基準をベースに、読んだ本、小学校・中学校・高校の素敵なあるいは面白い、個性的な先生達、見たテレビ番組、体験したいろいろなことをミックスして私の背骨はできている。
とか読むと羨ましくて妬ましくてヘドが出そうだけど、ぼくも高1~高2くらいのときに、先生達と毎日のように夜遅くまでお話してもらったり、幼児さんと遊んだり遊ばれたり絵本を読んで寝かしたりしてとても幸せだったから、あのころにぼくの価値観とか考え方とかはほとんどできた気もします。
そのときできかけてた背骨は、いったん全て壊れてしまいそうになったけれど、ぼくはまた背筋を伸ばして前を向いて歩いていきたいと思うから、バラバラになった背骨を拾ったり、新しいカルシウムを摂取したりしながら、今はブログで答えのないような考えを書きつづったりしてます。
P.S.
↑で終わろうと思ったけど、もうちょっと書きます。
ほとんどメモ書き。そのうち新しい記事で書きなおすかも。
表現者の話とは関係ないけど自己評価とか他者の評価について。
自己評価といっても、初めは自分による評価じゃなかったはず。このブログの著者も両親によってベースが与えられた。
自己評価だけを大事にして、他者の評価をまったく気にしないような人間になってしまうと、社会に適応することができなくなって不幸な感じになるかもしれない。
他者の評価ばかり気にして自己評価することができないと、他人からいい風に見られようとばっかりしすぎて、自分のやりたいことが分からなくなってしまうかもしれない。
他者の評価と自己評価があまり乖離(かいり)しないことが大事な気がする。そしてそれは、誰かが最初に適切な評価(フィードバック)をしてあげることが大事で、大体の人間にとってそれは両親だと思うんですよね。
ぼくのちょっとした嫌な思い出を書くと、小3のときに学校で「みなさん、少年団に入りましょう!」とか言ってパンフレットを配られて、ぼくはワクワクしてそれを読んで、そして「野球やりたい!」とか言ったのですが、母親に「そんなお金ないわ! 余計なことしなくていいの! 学校の宿題だけやってればいい!」と叱られました。
まあお金がないのは仕方がなかったけれど、子どもが新しいことにチャレンジしようとするその気持ちを踏みにじったことは明らかに不適切なフィードバックだったと思うし、ぼくはずっと「”やらなくていいことをやる”のはいけないこと」だと思っていて、最近になるまで、ぼくは何かにチャレンジすることができなかったよ。
いつの間にか自己評価とか関係なくなって、適切なフィードバックの話になっていたりしてわけが分からんし、寝る!
渾身の自意識過剰エントリ。
もし地球上に自分一人しか人間がいなくなってしまったら、ぼくはきっと寂しさに耐えられなくて、生きることをやめると思う。ぼくが幸せに生きるためには、他人のことを考えないといけない。
同じように、もし「いいおにく!」を誰も読んでくれなくてコメントとかなかったら、ぼくはきっと書く気をなくして、ブログを閉鎖してしまう。ぼくが書きたいことを書いていくためには、読んでくれるみなさんの存在が不可欠で、読み手のことも意識しなければいけない。(kiririmodeさんの理系学生日記を発見してからは、それなりに読み手を意識するようにはなりました。)
ところが、ぼくはたまに(?)読み手を無視して喜怒哀楽をストレートに表現した文章なんかを書き出すもんだから、読んでくれる人も様々な感情を抱くかもしれないなあ、と思い始めました。
たとえばぼくが「宝くじで1億万円当たりました!!!」とブログで自慢しまくると、ある人は「よかったね。今度プール付きの別荘おごってね!」と一緒に幸せな気分になれるかもしれないし、ある人にとっては「なんでアイツだけ。。。俺なんて1兆ジンバブエドルしか当たらなかったのに。。。」とか思って悲しくなるかもしれない。
たとえばぼくが「タンスの角に小指をぶつけてツメが割れてそしてその割れたツメが小指の肉にささったッッッ!!!」とか書くと、ある人は黒い腹を抱えて笑い転げるかもしれないし、ある人はとても痛いシーンを想像してしまって、一緒に痛いキモチになってしまうかもしれない。
感情を表現して書くということは、その感情が大きければ大きいほど読み手に影響を与えて、時には悪影響を与えたり、心のバランスを崩してしまったりするかもしれない。それは決してぼくの望むところではないのだけど。(ちなみに、ぼくが今まで触れたもので一番バランスを崩したのは「フルーツバスケット」というマンガですね。いろんな意味で。)
毒にも薬にもならない、日々の楽しかったことや嬉しかったことを書き綴るのもいいと思うけれど、自分の薬になるような、そして誰かの薬になるようなことを書きたいと思うから、たまにそれが毒となってしまう場合も仕方ないのかなあ、とか思ったけどどうなんでしょう。
自己弁護だけしてても成長がないので、もう少しオブラートに包んだわけの分からない村上春樹のような文章を書けたらなあ、とも思うので、ちょっと村上春樹を読み漁ろうと思います。
薬にもなって、その半分は優しさで出来ている、バファリンのようになりたい。
P.S.
ブログ書いてたら1時間くらい経ってしまった!!しかも最初書こうとしたことと違うこと書いてる気がする。
昨日さぼった洗濯して掃除しないと。
今日は5時半に起床して松屋に行ってモーニングセットを食べて、明治大学に簿記3級の試験を受けに行ってきました。
試験ということでトイレがムチャクチャ込んでたのですが、女子トイレが特にひどかった。なんか30人くらい行列並んでたし。女性は大変ですね。
勉強不足のまま挑んだ試験でしたが、なんか受かってる感じがします。ジェバンニが一晩でやってくれました。しかし簿記をやるとExcelのありがたさというのが身に染みて分かりますね。
試験後はカテキョ。教え子が明日都立高校の入試で、とてもドキドキしてた感じだったので、ぼくは「ぜったい受かると思うよ!」と声をかけておきました。本当に受かると思うよ!
受かったら、大好きなCC・レモンを買ってあげようと思います。
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